八雲が愛した盆踊り ―中山いさい踊り―

はじめに

はじめまして。公立鳥取環境大学の北中健太郎と申します。

西部(中山)生まれ、中部育ち、東部在住の、地元をこよなく愛する鳥取県民です。

普段は、大学で地域連携活動を推進する学生スタッフを務めるなど、カリキュラム外で地域をフィールドにした活動に力を入れています。

この度、やらいや逢坂と大学生が交じり合う「やらいや週末住人」というプロジェクトに参加し、大山町や中山地区をフィールドにしたさまざまな活動に取り組んでいます。

その一環として、何かこの地域ならではのユニークな文化や歴史がないかと調べたところ、中山の「いさい踊り」にたどり着きました。この盆踊り、どうやら面白い特徴がありそうだ…。ということで、自分なりに探求を試みました。

また、この度のプロジェクトを実施するにあたり、大山町中山公民館館長 手島さんに取材へご協力いただきました。 本稿はその成果物として、文献調査と館長さんへの取材をもとに、地域の皆様や、たまたま本記事を目にされた皆様に向けて、一学生の目線から「いさい踊り」の魅力を発信するために作成したものです。ぜひ最後まで読んでいただけると幸いです。

いさい踊りの歴史と特徴

いさい踊り

「いさい踊り」は、優雅で流れるようなからだの動きが特徴的な盆踊りです。

毎年8月中頃になると、中山地区のいたる所で盆踊りの中のひとつとして踊られています。

その起源はというと、具体的にいつ・どこで誕生したかはわかっていないのです。

しかし、踊り唄の7・7・7・5調という詩形から、少なくとも江戸時代後半には踊られていたと推測されます。

中山の隣に位置する旧赤碕町(現在は琴浦町の中のひとつの地域)に、「以西」と書いて「いさい」とよむ地区があります。ここでも古くから盆踊りが踊られていたため、赤崎の以西がこの踊りの起源ではないかと考えられています。

大山町は、中山町・名和町・大山町が合併してできた町です。

そして旧中山町は西伯郡・東伯郡の郡境に位置しており、西伯郡の逢坂村と東伯郡の村が郡境を隔てて合わさり昭和32年に発足した歴史があります。

その当時は既に中山で「いさい踊り」が踊られていたことは間違いないため、西伯郡の広い範囲でも踊られていてもおかしくないのですが、実は旧大山町では踊られていませんでした。

とてつもなく広範囲にまで浸透していたわけではありませんでした。 昔から中山各地の盆踊り大会では、それぞれの集落がひとつの踊りで終わるのではなく、太鼓や唄もさまざまな踊りが連続して踊られていました。その中のひとつが「いさい踊り」であり、特別いさい踊りが重要な位置付けということではなかったそう。一方で、理由は定かではないですが一部の地域では、「いさい踊り」をメインにしたり最後の締めに踊ったりした集落もあったとのことです。

ラフカディオ・ハーンと盆踊り

ラフカディオ・ハーン、またの名を小泉八雲。1850年にギリシャのサンタ・マウラに生まれたイギリス人の文学者です。日本に来る前はアメリカにいて、その頃には既に名の知れた文学者でした。ハーンが39歳のとき、日本の訪問記をかくため日本ふらっと来たところ、すっかり気に入ってしまいました。やがては日本に帰化し「小泉八雲」と名乗るようになります。

そして時は明治28年8月28日、宿屋に滞在していたところ、近くから何やら音が聞こえてきました。飛び出して音のする方に向かっていくと、そこでは上市の盆踊りが踊られていたのです。

ハーンは盆踊りを見て衝撃を受けました。その模様が「小泉八雲全集」第5巻(訳:平井呈一)の「盆踊り」の中に収まっています。その中で、波のように動く体やふわりとしたお辞儀の所作を、呪文や催眠術という表現で書き記しました。

「これはまたなんとも、言葉などではとうてい描写することのできない、何か想像を絶した夢幻的な舞踊―いや、ひとつの驚異であった」

「円かな月の下で、いまおどりの輪のまんなかに立っているわたくしは、なんだか魔法の輪のまんなかに立っている人間のような気がする」

「こういう人たちこそ、自然の心に近い心をもった人たちなのだ」

などと、盆踊りの優雅さや、歌い踊る人々を礼賛する描写が見られます。

その晩、横になっても盆踊りの衝撃を忘れられないハーンは、不思議な感情をそそられたわけや情緒とは一体何であるかについて自問し続けました。

彼は情緒について、

「それは単に一つの場所、一つの時代に限られたものではなくて、この宇宙の日の下にある、生きとし生けるものに共通した、喜怒哀楽の情にふれるものだろう。そう思ってくると、今夜の歌が、教えずとして大自然のもっとも古い歌と偶然にも暗合している点と、それと野の音楽―あの多数にして甘美な大地のさけびの一部をなす夏虫の声と知らぬまに、血のかよっている点に、そこになにか深い秘密がひそんでいるのではあるまいかと、なんだかわたくしにはそんな気がされてならないのである。」

と表現しました。

それ以来、ハーンは日本各地の盆踊りを観賞したうえで、同じ手ぶりで踊られるものは二つとしてなく、どの地域でも面白く見物人を飽きさせない楽しさがあると述べています。 日本の盆踊りに魅了されるきっかけが、この中山の地にあったことは大変喜ばしいことです。

保存会の活動

平成8年ごろ、「いさい踊り」という伝統文化を皆で守り後世へ継承していこうと。「いさい踊り保存会」が立ち上がりました。

古くから中山の各地で催された盆踊り大会で「いさい踊り」が踊られていましたが、同じいさい踊りでも、地区によって少しずつ所作が異なっているようです。

そこで保存会は、それらを統一して、「中山いさい踊り」としての一つの完成形を作り上げました。

結局、どの地区の踊りが正しいかは様々な主張がある中で明確にすることは難しいのですが、あくまでもこの踊りを後世に残すための手段として全体で統一化がなされたわけです。

実際に、保存会が定めたものよりも、自分たちの地区に伝わる踊りを大切にしたいという意向で、保存会には入らず独自で保存活動を続けている地区もあります。

様々な意見がある中で考えは違えども、地域に古くから伝わる伝統文化を大切に守りたいという強い思いはどの地区も変わりません。

この振り付けが統一化された「いさい踊り」は、昨年に文化庁が制作した啓発DVDで観ることができます。

さらに、保存会では小学校へ特別授業に出向き、児童に踊りの指導を続けていました。

小さい頃に覚えたものは案外大人になっても忘れないものです。小学生に踊りを覚えてもらい次の世代に譲っていこうという考えからこのような取り組みがなされました

地元の中山小学校の運動会に合わせて、春から幾度か指導に出向き練習を重ねて、運動会当日は小学生や保存会をはじめ地域住民で「いさい踊り」を毎年踊っていました。

学年ごとに教え方を工夫して、学年を変えながら全高で練習をします。その中では、踊りだけではなく、児童の興味に応じて唄を教えたり、太鼓を教えたりしながら、子どもたちに中に入ってもらえるような工夫を凝らしていました。 しかし、5年前に新型コロナの流行が始まると、運動会等の行事は中止に追い込まれ、ここ数年でも運動会の規模縮小や入場制限によってプログラムにいさい踊りが組み込めなくなってしまいました。そう遠くないうちに、また運動会で子どもや大人が混じって踊る光景が戻ってくることを願っています。

おわりに

盆踊りというものは地域によって個性が見られます。同じ中山地区でも所作が異なるほどです。

一見すると何の変哲もない踊りに見えても、ラフカディオ・ハーンの目にはこの上なく美しく幻想的に映りました。この地域の住民たちが残してきた伝統と紡いできた人の歴史が外国人の心にも届いたということでしょう。中山にルーツのある私にとって、自分のことのように誇らしく名誉なことです。

また、「いさい踊り」の保存のために地域ぐるみで活動をなさっていることもわかりました。

この素晴らしい文化を我々は後世に継承する義務がある。そんな中山の皆さんの熱が伝わってくる取材でした。

最後になりましたが、中山公民館長の手島様には、本企画の遂行にあたり快く取材にご協力いただきました。厚く御礼申し上げます。

また、「やらいや逢坂」の皆様には、企画の構想から公開に至るまで、多くの助言とご指導を賜りました。ここに深謝の意を表します。

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